今回の地震、悲観的になれば何もいいことがない。
でも、物事には必ず意味があると思っています。この先を生きていくため、前に進むための意味が。それは、悪いことばかりじゃないのです。
こんなカタストロフィーが起こると、生きていることの大切さに引き戻されます。たまたま隣りにいる人にも、ちょっと気遣うようになる。困っていても、辛くてもあまり文句をいわず、助かったことに感謝する。日本人の非常時にこそ冷静に団結するこの気質が、今回もやはり際立っています。
多くを失って、呆然として、でもそこから生きていこう。日本はこれまでも何度も困難にぶつかってきたのです。私の先輩たちは、それらを克服してきたのです。日本のワタシたちにはそうした力がある。生活が良くなったために、皆がバラバラに進みだしていただけでしょう。
どんな意味か・・・
ひとつ: 物質主義の見直し。
モノを所有する、消費することで幸福度を得ることへの振り返りです。たくさん持っていても、自然の力でさぁ〜っとなくなってしまう。しがみついていたモノって一体何なのでしょう。ココロを充足させてくれる考え方、生き方の重要性を教えてくれているようです。
ひとつ: 技術ですべては解決しない。
日本が誇る原子力発電所が大問題に。東京電力の整備、設計が不備だったのでしょうか。これほどの津波を想定しなかったのが悪いのでしょうか。
いや、より高度に精密に・・・、と技術をエスカレートさせたところで、人間は自然の力の範囲でしか生きられない、ということではないでしょうか。あんなに高度な設備で私たちの日ごろの電気がつくられていたのか・・・。それだけで、凄い。人間がつくったものが、それを人間は完全制御しようとするあまり「不可能」といえなくなってしまい、完璧主義を求める技術依存の悲しさ。技術が進歩したがために、ヒトとしての無理が日常になっていることへのウォーニングと思えます。
電力会社だけの責任ではなく、私たちにエネルギーとの付き合い方が問われています。
ひとつ: 共同する意識を大事に。
技術を補うものが、人間同士の協力関係です。社会がサステナブルでなければ、経済も永続しない、という基本を改めて考えさせられます。政府ばかりに頼り対処してもらうのでなく、危機意識を軸に皆がココロを結束して乗り切ることです。
ひとつ: 自然を畏れ、うまくつきあっていく。
自然は私たちが征服できるものではない。人間は自然に生かされている、ということにつきます。といって、都会での暮らしを全面的にやめるわけにはいきません。どうやったらいいのか。これまでの延長でなくサステナビリティを頭に描きながら、偉大な力に畏れをもちつつまたそれに抱かれる意識を持つことから始めましょう。