仕事をやめようと思うようになったいきさつは、2年前にがん手術をしたことから続いています。手術の直後は思った以上に健康が快復したために安堵感や感謝の気持ちが大きく、むしろ仕事を続け「がんでも働ける」ことを示すことが大事だ、と思ってました。
2018年8月のブログ的レポートでは、こんな風に書いてました。
「・・・今回の一連の経緯から自分は「生かされているな」と感じるようになった。
『やることがある限り、生かされるのだ』と。
・・・
これまで自分の精神や肉体は自分のもので自分が動かしていると思っていた。それが何か大きなチカラのもとで、人間は「生かされている」と理屈抜きに感じる。いつまで生きられるかどうかは自分が決めることじゃない。そんなことは心配しなくていい。命があるということは、それなりの役割があるということなのだ。あとどれくらい生きられるかよりも、確実に生きている今何をするかを意識したほうがいい。
これまでと同じ気持ちで生きるのではないとすると・・。
同じ路線の仕事をしても、意識が変わると違ったやり方が見えそうだ。一方これまで私がやることではない、と受け付けなかったことの中に自分の役割があるものが出てくるようにも思う。人生の最後の方を過ごしたいと思っている場所への移動も、あまり遠くない時期に実現するのかもしれない。」
そして、「がんを患っても働けることを示すことが今後やることの一つなのだろうと思えてくる」と。
病後だからこそ、現社会からフェードアウトしてしまうのではなく、逆に快復して元気になっていく様を示していきたい、という思いが強かったですね。
それももちろん意味ある生き方。
ところが「今ある命を前向きに生きよう」という気持ちでいても、何かやろうとすると身体のどこかにストレスを感じるようになってしまい。今度は次のメッセージがきたと感じ、仕事をやめて生き方を根本から変える・・・方に動いていきました。
医学が発達して治療できるのだからそれでいいじゃないか、というわけではないのです。病気をするのは身体への警告であり、このサインを見過ごさずに今の生き方へのメッセージだと思った方がいいです。
「もう終わりかもしれない」「助かってもこのままずっと病室の人生なのかも」という経験をすると、どうしても生きてきたことを思い巡らしながら死を考えます。幸い体調が快復した今日でも、「これからをどう生きるかということは、同時にどう死ぬかを受け入れ向き合うことだ」という思いが常にあります。
でも、死とは肉体が朽ちることで御霊は永遠不滅のモノ、転生を繰り返すと考えれば、恐れはなくなってきます。魂までなくなって真っ暗闇・・ではなく、肉体という衣を脱いでいくだけだとなれば、この話もそんなに悲観的になることじゃない・・ということをご理解ください。
病気はそれを我が身で納得する機会なんですね。